JAT〜深田久弥ゆかりの山々

JAT〜深田久弥ゆかりの山々

深田久弥の原点を探る久弥ゆかりの山行便りをお届けします。日本一周旅行で取り残しとなっていた岐阜は戦国時代の群雄割拠の地であったことからも何れは訪れたいと思っていた。その古戦場城巡りの帰路、能郷白山に登頂した際、余りの眺望の良さに驚き、何故深田久弥は能郷白山を落として荒島岳を百名山一山に選んだろうかとの素朴な疑問に駆られたことにある。I wish to report a mountaineering to exploring the origin of Kyuya Fukada. Since Gifu is left out of the Japan trip, I hope to visit Gifu in the future because It is the wellknown land of warlord rivalry in the Sengoku period. On the way back from visiting the old battlefield castles in Gifu, I am surprised by the panoramic view from the top of Mt. Nogo Hakusan and wonder why Kyuya Fukada choses Mt. Arashima-dake as one of the Japan Hyakumeizan (Japan’s 100 most famous mountains) instead of Mt. Nogo Hakusan.

実際には、初秋の8月岐阜の戦国古城を巡った帰路能郷白山に登頂。翌9月荒島岳に登った折、深田久弥の原点は何だろうと自ら問い直して、翌10月富士写ヶ岳を訪れる。

能郷白山、荒島岳、そして原点の富士写ヶ岳

悩んだ末、荒島岳が百名山入りし能郷白山が選外となったのは有名な話である。
深田久弥にとって荒島岳は腹違いの姉とは付き合いが深く、姉が嫁いだ勝山市で一際目立つ荒島岳に惹かれて以来懐かしい山なのであろう。一方、能郷白山は福井県からは目立たず、叉三角点が隣県の岐阜側にある事も関係しているのではなかろうか。

「身贔屓の山といわれた」荒島岳も、白山と共に故郷の山。福井県の一山は能郷白山と荒島岳とで迷ったが、学生時代に見た山容の印象も決め手となった。(越前の山より)

俺的には眺望が優れている能郷白山を一山としたいが、能郷白山は標高の高い温見峠登山口からは2時間弱で登頂できるのに対して、荒島岳は(勝原・名出)登山口の標高が低い為4時間程かかることで百名山により相応しいとの思考もありうる。

両山共ブナ森林浴を浴びて清々しい気分に浸りながらで登れる。叉、登山者がアルプス山々に比べて比較的少ないこともあって登山道が荒れておらず登りやすい。

富士写ヶ岳は、深田久弥が小学校時代に登頂した折、彼の強靭な体力を褒められた以後山行にのめり込んでいく原点と言われ、久弥の道程を歩む上で避けられない一山である。標高1000mに満たない低山であるが登頂に2時間半程度もかかる。老年の体力のバロメータに適した山かもしれない。

富士写ヶ岳は山中温泉の奥地の我谷登山口が実家から最も近い。何時でも行けるロケーションにある。

11月の連休前の秋晴れの早朝、我谷登山口から登頂する。登山者が少ない故か登山道は乱れておらず、ブナの根が発達していて実に登りやすい。所謂天然の登山道である。山頂まで多少時間がかかるがテンポを保てば息切れすることなく登頂できる。

誰もおらず山頂を独り占めできよう。

深田久弥の碑は富士山へ向かって建立されている。山頂の方位盤に富士山が記載されているので、随分と探したが、富士山の存在は確認できず。白山連峰の間に見える穂先のような山は何だろうか?

眺望は乏しい。白山連峰に遮られて立山はもとより御嶽山、乗鞍岳、南アルプス等も見えない。

思ったより急登で早朝は夜露で滑りやすい。ロープは5箇所張ってあるが、中間地点上下の2箇所以外はロープを掴まずに下ることも困難ではないが、ロープを有効に活用した方が安全且つ機敏に下ることができよう。

大聖寺川上流の我谷ダム、九谷ダム界隈は野生ワサビ一大群生地と聞き及ぶ。何れご紹介できればと思う。

岐阜古城

盆前の暑い盛りに戦国時代の古城とトヨタ博物館巡りの岐阜路に出かける。往路は越前勝山・大野を抜けて勝手知った国道158号線を経て岐阜に向かって南下、戻りは酷道157号線を北上する周回ルートである。

実際に現地へ赴き、古城周辺を肌で感じると、古城としての風情はあるものの、国宝犬山城を除いて全て天守閣がレプリカであることを知る。一挙に天守に入閣する気を失う。稲葉山城(岐阜城)は金華山の頂き迄2時間をかけて登った挙句にその城容を目の辺りにしてガックリ。清州城は住宅エリアでの異常な出現に驚く。

犬山城の天守閣は外廊から景観を一望でき、心温かい配慮に感動する。

以下、写真で紹介する。

トヨタ博物館

金に糸目をかけず唐突に収集した感が否めず。

数多くの黎明期の車、アメ車、加えて俺好みでないトヨタ2000GTの陳列にはウンザリする。只、一度は見たかった2000GT “Bond Car”と2000GT Roadsterがバックヤード入りと知る。当然か?

300SLが陳列されているとは夢にも思わず出合い頭あっと驚く。300SLの造形美に毎度ドッキリする。トヨタ2000GTの15年前に生産されたと知り、改めてドイツの先進性に驚く。日本自動車博物館の300SLで充分という思いがあったが、ピカピカの車体、内装を詳しく観察してしまう。感無量!

先ず、1930年代個性的のある魅惑的な車を輩出した黄金期、保有してみたいアメ車から最高傑作300SL迄、象徴的な外車を紹介する。

最後に、気になった国産車をご紹介する。
俺的にはバブル期の国産車が最高!

岐阜・越前古寺

岐阜古城巡りの帰路、古刹を訪れる。

谷汲見山華厳寺は日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願のお寺として知られる。駐車場から仁王門までの参道は長く両脇にお店が立ち並び、垂れ幕が棚引き、最盛期を偲ばれるが、火災でご神体を消失して以来、次第に大店も閉じて界隈は寂れたと聞く。

山間を更に奥に入っていくと両界山横蔵寺がある。即身成仏した舎利仏で有名だ。ここも参拝者は疎ら。

平泉寺は明治維新の寺領変革を受けて平泉寺白山神社となっているが、もとは天台宗の古刹として興隆した。朝倉氏の庇護を受けて寺門は益々栄え一山六千房と称せされたが、一向一揆門徒に怨まれて堂舎全て兵火のため焼かれた。徳川時代に再び栄え堂舎が隆盛し、一時は拝殿の大きさが四十五間と日本一の大きさを誇ったが、今では見るべきものは殆ど残っていない。しかしながら、苔が厚く敷き老杉の林立する境内は俗化を免れて広く閑寂とし古刹の面影は依然として残っている。

再来年2025年5月23-25日は三十三式年開帳に当たる。是非訪れたいものだ。

旅を終えて

岐阜、久弥ゆかりの山々巡りで今年の旅は終わり。怪我もなく盛り沢山の充実した一年であった。

次回は、シャクナゲが咲き誇る5月の春、久弥の原点富士写ヶ岳に訪れたい。

日本一周を終え再訪したい処はあるが、遠くておいそれと行ける場所にない。
この年になると京都、奈良など近場の観光、巡礼地へ足を伸ばすのが妥当かなと思っている。

さて、来年は何処に訪れようか?

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